シンプルマルの節約生活

マルが日常行っている節約術や日頃のニュースで感じたことなどを つづっていきます。

先日ある記事で、相撲の土俵女人禁制についてのものがありました。
その記事では男女平等を普段から子供に教えているのに、土俵に女人禁制はおかしいという論調でした。
まず私は普段から男女平等を子供たちに教えているという認識に違和感を覚えました。
先進国における女性の地位が100位以下と圧倒的に低い国にありながら、男女平等という認識はかなりのズレです。
この問題では、急病人が出た状況に置いて、看護師免許を持った女性が土俵に上がって処置をしようとした勇気に対し、それでも土俵は女人禁制というしきたりを守るために、男性のアナウンスをする人が咄嗟に「土俵から降りてください」と言ったことが問題となっています。ここでは、その男性アナウンスをする人が、女性差別主義者だったかというのは問題ではなく、そんな緊急事態においても女性は土俵に上がってはいけないのかということが問題です。
新聞の意見欄を読んでも、そういう制度を改正すべきという意見も多くありました。私も急病が出たときは土俵に上がってもいいのではないかと思いました。
私が一番問題だと思うのは、男女平等だと子供に教えることだと思います。
学生時代はそんなに男女不平等を意識することは少ないですけど、社会にでたらたくさんの男女不平等があります。その記事を書いた人が男女は平等だ、だから女性も土俵に上がっていいという認識を実際に持っていらっしゃるのかは分かりません。しかし、2010年代後半のこの時代に、男女不平等が普通にあるという認識を持っていないのに対し、違和感を感じました。

昨年末にハリウッドの女優がセクハラ被害を公表し#MeTooと声を上げる有名人が出てきて、それが世界的な運動になっています。
一昨日、第2回ウィメンズマーチというデモ行進が開かれて、昨年以上に性暴力反対への声が大きくなっているように思います。それはこの#MeToo運動が要因としてはあるようです。
アメリカでは2017年のウィメンズマーチで50万人がワシントンに集まったと言うことですが、日本でも同様に2017年ウィメンズマーチ東京が開かれ300人が集まりました。
日本ではこの世界的な#MeToo運動に対し、新聞の#MeToo特集を読んでいると、性被害の投書が匿名ですけど赤裸々に書かれていて、少しですけど、性被害者が声を上げるようになってきています。
アメリカはウィメンズマーチなどの運動に関して、男性も意識が高い人が多く、その活動を応援する声も多いように思います。
ある投書の中に、#MeTooはセクハラや暴力をしたをおとしめるという風潮があるように感じると主張されていました。純粋にセクハラや暴力をなくそうという運動であれば応援できるという風に書かれていましたが、私にはそうは思えません。私はこの運動が加害者をおとしめるためのものでなく、純粋に暴力のない社会を願うもののように思います。おとしめるように感じるのはそれは加害者の立場の発想だと感じました。
ある大学教授は女性を下に見る支配の対象としてみているという言葉を使われていました。
すべて平等という事は男女に限らずないのですけど、暴力が許される社会というのはおかしいと思います。
私が出会ってきたなかで、人をいじめたりする人間で凄いと思う人間は1人もいませんでした。
大人になると状況を客観的に見れるようになってきたので、いじめたりする人を見ても受け流すことができます。
新聞に投稿している識者の人達は意識が高いのですが、世の中にはこれぐらいならいいだろうという意識の人も多いです。
セクハラを含めハラスメントは閉鎖的なところで起きやすいと思います。例えば大企業であればコンプライアンスがしっかりしているのでそういうことは起こりにくいです。
ある大学教授がかかれているように、多くの人はセクハラの加害者ではありません。
結論として、この動きによって、少しでも平和な世の中になっていってほしいと思います。
解決策は、簡単に1人の人が導き出せる解答ではないですが、#MeTooの投稿のようにシェアするものによって、いろんな気づきがあったり、意識が変わっていくことはあるのではないかと感じました。


朝日新聞、天声人語12月27日付けの記事に、ポピュラー音楽のヒット曲の前奏が1986年に比べ、大幅に短くなっているというものがありました。
1986年には20秒以上平均あったのに、2015年には5秒に縮まっているという。
でも、5秒のイントロの曲って探すのが難しいんでは?
イントロに当たるものは生活にもあるとしていて、仕事に出かける前の、朝のルーティーンとかそういったもののことを言われています。
ホテルカリフォルニアのイントロは50秒ほどで、そのイントロを惜しむのは文化的に退化しているか進化しているのかと言われていますけれど、それは、時間に余裕があるかないかの差ではないかと感じました。
でも、曲の前奏の時間すらを惜しむのは、やっぱり年の瀬であるからでは。
1分以上の曲の前奏は長すぎます。


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